ちえこのつれづれ日記

はじめてブログに挑戦しました。皆様よろしくお願いします。

偉業達成

連日の暑さに、
今度こそ真剣に終活をすることを
心に誓ったのに実行できず
ダラダラとテレビをみたりして
過ごしているが、兵庫県知事の
事と自民党の総裁選のことで
辟易して気分が悪くなっていたが
今朝は久し振りに万歳をした。


この頃BSで毎日のように
メジャーリーグの実況中継が
放送されている。只でさえ
野球音痴だし、勝ち負けも
どうでもいいのに、大谷さん
見たさに見ている。


本塁打50、盗塁50を
期待されていたが、なんと
今日3本もホームランを打って
本塁打51本、盗塁51の
偉業を成し遂げた。


天は二物を与えず、と言うが
彼には三物も四物も与えたか。
その上、人の何倍もの努力も
怠らないらしい。


すばらしいねー、
すてきだねー。
日本の誇りですねー。
(淀川長治さんかいな)

蜂と大格闘

いつまでも真夏並の猛暑が
続いている。
昨日の夕方、間もなく日が
暮れようとしている頃、暗雲と
遠雷が、そしてゲリラ豪雨が
襲ってきた。急いで窓を閉めようと
した時カーテンにアシナガバチが
止まっていた。雨に打たれて
どこからか入って来たのだろうと
でも、相手は蜂、雨宿りさせて
あげるわけにはいかないと、
カーテンをフリフリして外へ
逃がした、 つもりでいた。
あちこち窓を締めてやれやれと
座ったところ、ブーンと天井を
飛んで居るではないか、
大格闘はここから始まった。
片手にキンチョール、片手に
ハエ叩き

漸く退治して、粉々に潰し(残虐)
やれやれ夕食にしょうと思ったが
はて、噴霧した殺虫剤が浮遊している
に違いないと換気扇をまわした。

テーブルの上も拭きこれでよし。
が、そうは問屋が卸さなかった。
一難去ってまた一難、恐ろしい事に
なってきたのです。なんと換気扇の
中から次々と蜂が飛び出して来た
のです。さあ大変、なにこれ!
仲間が復讐にやって来たのか。
またまたキンチョールとハエ叩き
で大格闘、幸い殺虫剤の霧の中を
くぐって来たらしく動きは鈍く
なっていた、が相手は次〃と襲って
くる。「ぎゃーっ」といいながら
首や頭の痛いのも忘れて
八面六臂(大袈裟・・ではない)
だって怖いんだもの、必死です。
結果

成果は八匹(ハチダケニ)(ギヤグを
言っている場合では無い)
初めの一匹は怒りを込めて
粉々にすりつぶし頭だけ残っていた。


長閑な田園風景と引き換えに
いろいろな虫たちも多い。特に
蜂たちは家屋のどこかに巣を
作ることがある。今までも幾度か
蜂の巣退治をしてきたが、
換気扇のなかに巣作りをしていたとは
想定外だった。
不運な蜂さん達、ごめんなさい。
ても私も命がけだったのよ。
今でも何か揺れたり
髪の毛が動いても、蜂が来たのでは
と怯えています。


今朝はまた首筋が痛みます。


蜂退治奮闘記でした。

頭痛

蝉の鳴き声に代わって朝夕は
コオロギの涼やかな声が
聞かれるようになった。朝まで
つけていたエアコンもタイマーで
3時間で切るようになった。
秋は着実に近づいて来ているように
思うが、いやはや日中の猛暑は
いつまで続くのかと辟易する。


8月初旬から発熱に悩まされ
やっと平常に戻った頃から
今度はひどい頭痛に襲われた。
特に夜中には頭を枕に置くこと
すら出来ず上向いても、
右向いても左向いても痛くて
寝られない。起き上がって
家中(と言っても広くも無い)を
徘徊(と言っても意識はあるので
恍惚の人ではないつもり)したり
テレビをつけてパラリンピックを
見たりして夜をあかした。
翌日、脳神経外科と整形外科を
受診した。  脳のCTの結果は
「きれいです。心配ありません」
整形では頸椎のX線を。ここでも
「頸椎の4番目と5番目が
変形していますが、この程度は
歳相応です」との診断。
じゃあこの痛さなんなのよ!(心の声)
「リハビリ室にいって電気を
かけたりマッサージしたりして
みましょう」
リハビリ室にいって受付をすると
今日はもう一杯なので来週の
予約を入れます、と。私、いま
痛くて困って居るんです!(心の声)
鎮痛剤と胃薬と肩こりの薬と湿布と
なぜか葛根湯まで処方され
納得いかないまま帰った。


その晩も薬も効かず、痛み、翌日
藁をも掴むおもいで鍼灸院に
行った。電気治療と鍼とマッサージ
をしてもらい至極らくになって
帰ったものの、夜になると
痛みは益々ひどくなった。
これではいよいよ救急車で運ばれ
入院か、あるいは遂にお陀仏か。


と夜中に、入院に必要なものを
整えたり、万一に備えて生命保険の
証書や117の会員証を確認したり
日頃から気になっている物を
片付けたりした。
薬も効かず、冷やしても温めても
鍼灸の効果も無くなす術は無い。


考えてみれば、もう人生を
終わってもいい歳ではある。
好きなように、幸せに生きて
来たのだし、子供たちも孫たちも
心配なく暮らしてくれている。
そろそろ潮時か、この世に未練も
ない。


と、ひらきなおった。 翌日娘に
貯金通帳はここ、証書類はここ、
もしもの時の連絡先などを伝えた。


皮肉なことに、開き直ったのが
良かったのか悪かったのか
徐々に痛みが薄れつつある。


8月初旬から約1ヶ月、
お盆飾りも迎え火もせず、仏に
なった夫は帰るに帰れずどこを
彷徨っていたことか。


長々とおばあの頭痛顛末記を
お読み下さった方、
申し訳ありませんでした。


近隣の田んぼは早や稲刈りが
始まった。


発熱顛末記

ぐずぐずと微熱が続き、夏風邪か
と思っていたがお盆のまっただ中
朝から高熱。かかり付け医は
お盆休診中、市の広報を見ても
日曜以外の当直は載っていない。
娘がコロナに罹っているので
やはり私もかと、ならば検査
だけでもしなければ。
思い当たる医療機関もないので
119に℡して受け付けて貰える
処を教えてもらい、まず℡して
了解を得てからタクシーで行った。


この辺りでは大きな総合病院。
着いたら車を降りずにもう一度
℡下さいと。着いて℡すると
救急外来の前で降りて下さい。
まもなく看護師さんが来て
名前を聞かれたまま小さい部屋に
閉じ込められ、一時間近く経っても
なんの音沙汰もない。この時
熱は8度6分、かなりしんどい。
横になりたくても椅子しかない。


もう限界と思った頃やっと
医師らしき人がきた。
どこか痛いですか?頭が痛いです。
のどは?    少し痛いです。
咳は?     時々出ます。
医師は立ったまま聴診器を
洋服の上から四カ所申し訳程度に
当てた。と言うよりかすった。
検査をしますと言って綿棒のような
ものを鼻につっこみまた消えた。


また待つこと3,40分。
医師は2枚の紙を持って現れた。
検査結果と処方箋。
優しい声で、しかも男前。
「検査結果は陰性でした。暑いから
きを付けてお帰りください。
なにかあったらまたきてください、
薬局でくすりを貰って下さい。」
おわり。


診察券も保険証もみなかった。
なんじゃこりゃ。しかも
2週間後支払いに来て下さい
という。
タクシー代往復6600円。


薬局は広い病院の片隅にある。
灼熱の太陽の下、ふらふらになって
カロナールとトローチと咳止め
をもらってタクシーで帰った。


家に着いた途端気を失ったように
夕方まで意識不明で眠った。


インフルエンザでもなく、
コロナでも無いことが判明した
だけは良かったが、私、
熱が出てしんどいから行ったのに
じゃあなんだったの?
男前でなくても、優しくなくても
いい、もう少し丁寧な診察と
説明がが欲しかった。


約2週間ぐずぐずと寝たきり老人
のような生活をしていたが
やっと昨日から少しずつ動くように
している。熱も平熱になった。


長々とお読み頂いた方
もうしわけありませんでした。


おばあの発熱顛末記でした。

終戦記念日

今日の空は、あの日の空と
よく似ている。
昭和20年3月に東京から
伊豆の山奥の母の実家に疎開して
初めての夏休みだった。
おばあちゃんは、お盆の特別の
ご馳走としてお饅頭を作っていた。
お饅頭が出来上がった頃、
ラジオの前に全員集められた。


終戦を告げる「玉音放送」を
きいた。神だった天皇の声を
初めて聞いた。その声は(失礼ながら)
甲高くやたら間延びして
まったく理解できなかった。
叔父が肩を震わせ涙をポロポロ
流して、一言「負けた」
と言った。それまで日本軍は
果敢に戦い各地で勝利を治めている
などと連日放送で聞いていたので
寝耳に水だったのかもしれない。


後から戦争が終わったことを
聞いて、私は嬉しかった。
東京でさんざ怖い目に遭って
きたので空襲が無くなること
だけでも子供心に嬉しかった。


もうあの頃のみじめな惨状を
知る人は少なくなっているけれど
今のガザ地区やウクライナどころ
ではないほどの悲劇だった。


二度と戦争を繰り返さないよう
79年目の終戦記念日に祈る。


庭の百日紅
あの日もさるすべりが
灼熱の太陽のもとキラキラと
花びらを震わせていた。